
「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘元総理大臣が亡くなりました。
101歳でした。
中曽根元総理大臣は、大正7年に群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと太平洋戦争を経験しました。
そして昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に当時の民主党から立候補して初当選し、その後自民党の結成に参加して20回連続で当選しました。
この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。
また改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。
中曽根氏は当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。
昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。
昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受けそれ以降は参拝を見送りました。
中曽根氏は行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。
一方、外交面では総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。
互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京・日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。
昭和60年3月には、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。
一方中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。
昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。
しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し11月に退陣しました。
中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび、安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ戦後5番目の長期政権となりました。
総理大臣退任後リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。
そして平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。
翌年には大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。
しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。
中曽根氏は政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」と詠んでいます。
とりわけ憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20191129/1000040854.html
総理就任の時は、風見鶏と呼ばれていた。
懐かしいな。
>>1
Λ,,,Λ
( ・ω・)60番がバレる寸前なので、最後の切り札を切ってきたな
Λ,,,Λ
( ・ω・)何でもやる安倍晋三
浮沈空母発言もあったな。
>>1
>国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、
アメリカ製の原発を、福島県に設置させるのに尽力した功績が抜けてるぞ?
彼こそ、日本の「原子力発電の父」の1人だろ?
若い頃 海軍の主計士官で軽巡青葉に乗艦してたとか。たぶん靖国の英霊からフルボッコかも。まぁ東条や山本や乃木や東郷より出世したのだから相当な人物ではあった。かもね。
自衛隊の誤射だったのか?
事故
陰謀説だから真に受けないようにな
おそらく中曽根ファンは70-100歳
ここにいるとは思えない
不沈空母
海外メディアはどこも称賛しているのに、
ここのみなさんは、貶さずにはいられない。
死者に鞭打つとは情け無い。
いや、称賛に値するよ
アメリカ追従みたいな顔してちゃっかりイラン大使館残したのは最大評価されるべき功績の一つ
いや、外国受けは良いかも知れないが、やってきた事は微妙。
前川の妹(真理子)が中曽根息子(弘文)の嫁
いい加減覚えろ
って言うか、没後に大勲位って顕彰方法が
今回通用しない、だから国葬で顕彰するって方向に行く。
位階勲等は吉田茂と同一の従一位大勲位って流れだろう
中曽根先生 本当にお疲れさまでした。
中曽根康弘
群馬県立高崎高校卒。 東京帝国大学(現 東京大学)法学部卒。
戦時中は帝国海軍主計中尉としてアジアの各戦地を部隊を率いて転戦。
戦後は歴代5位の長期政権を舵取りし国鉄民営化を断行し
憲法改正を終生まで唱え続けた。
大勲位 中曽根先生万歳!!!
昭和から平成の時も時代の立役者がどんどん死んでいった
人間101年くらいしか生きられないんだな
約36900日間
中曽根は120ぐらい生きると思ってた
30000日くらい生きたら死んでる。82歳
年に5回くらい初物を食べれば、理論上不老不死らしいぞ
平民はいくら長生きしても直前まで奴隷のようにこき使われ給料ピンハネされるだけだからな
中曽根が残した負の遺産、派遣などの搾取システムを葬らないと
杖なしで自分の足で歩けてなおかつ痴ほう症にならない間は生きていたいな
杖が必要になってまで生き続けるなどイヤだな
他に発展した経済圏がない時代の話。
アメリカはまだ有色人種に厳しかった時代。
あの頃も既にジジイだった記憶があるが、随分長生きだなと思ったら101歳という年齢を見て納得
巨星堕つ
政治家然とした人だったね
THE政治家という感じ
ありがとう、ほんとにお疲れ様でした
お祖父様は大正7年生まれでしたか
偉人がたくさんいる年ですね
有色人種の先進国が日本しかない時代で
白人に楯突いてやっていけるとでも?
バブル崩壊の渦中に居ず戦犯にされることもなく見事に逃げ切った
>>117
憎まれっ子世にはばかる
日本のことわざ
この前の即位礼にも自分の足で歩いて参加してたしなあ
えっ、いたの?
自分は幼稚園児の頃の総理
1980年生まれ以降だとほぼ歴史上の人物扱い
最近だったら実感もなく教科書に載ったりしてすでに歴史の人物になってるからな(笑)
5ちゃんも高齢化してるが中曽根が総理の時のリアルタイムでわかる層も少ないからな(笑)
中曽根だけが30年近く他より長く生きてる
4人目の福田でも1995年に没。
21世紀も令和も健在だったのは中曽根のみ。
三角大福中って最初は三角大福で中は後から加わってるからな
ちなみに三角大福の4人は中と同じ扱いされるのを相当嫌がってたようだ
中とは格が違うということらしい
>>179
逆じゃねーか?
ポスト佐藤栄作候補となる
派閥トップが三角大福中で
そのうち中曽根が47年の総裁選で
降りて角栄支持に回ったので
中が外れた
と思ってた
当時の中曽根派は当時の総裁推薦必要人数50人もいない単なる中間派閥
中曽根は将来の総裁候補扱いで当時の総裁候補扱いではなかった
総裁推薦人数50人いないのは三木派も同じだけど
三木は政界の長老扱いで中曽根とは立場が違った。
引用元: ・中曽根康弘元首相が死去 ★4